昭和五十六年十月九日 朝の御理解 御理解 第八節 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。無信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」 信心しておかげを受けてくれよと仰せられてあるおかげとは、どういうおかげを受けてくれよというておられるのだろうか。初めに親子の情をもって説いておられます。ね、ですから親の心がわかり、ね、親の心にそい、いうならば、真に親が喜び、安心してくれれるというおかげを受けるという事が、私は信心だとわからなきゃいけない。ただ信心して参って来いよ、拝んでくれよというだけじゃない。その為にこの神様は、親子の情をもって説いておられます。ね、子供を持って合点せよ。
そこでね、子供の中に屑の子がおれ、子供の中に難儀をしておる、例えば子供があれば、それがもう可愛いのが親の心だと。だから、その親の心がわからなければいけないという事。ね、昨日、福岡の川上さん、御本部のあちらで、何ですか、広東教会ですかね、の御信者さんで、いわゆる川上さんフアンの方達がいつもお弁当まで作ってみえて、合楽のお話を聞くのを楽しみにしておられる方達がいくらもある。ああ、こりあほんに、川上さんではなかったか、あのくの一会の伊藤さんだったかしら、伊藤さんもやっぱそんな方があって、まあ、いちいち伊藤さん所のお電話をしてお取り次ぎを頂いてもろうておかげを受けておる。
次々、このおかげの泉とか、いろんな物も送ってもらって勉強さして頂いて、もう本当に、そちらの教会長先生も、合楽の一番すばらしいのは一切神愛といわれるそれなんだと。これが合楽の信心の一番素晴らしい、いっぺん教祖様の天地書附を、高橋家にありますそれを、ここでいっぺん合楽の先生に拝んでくれといって持ってみえた。その御信者さん達なんです。
ですから、合楽に非常に、ここに参拝もしてみえた事がありますし、まあ、傾倒していかれてあるですけれども、だんだん合楽理念に基づいた信心生活がでけておりますと、人が難儀な事ですなあという事がありますけれども、私はそれを有り難いです、有り難いですというて答えるとね、皆がね、そういう時に有り難いというのは嘘だといわれるですというお話でした。
私はそれを聞きながらね、合楽の信奉者の皆さんの場合だって、やっぱし同じ合楽理念の中に浸っておる毎日、日参しておるというても、やはり難儀な事は難儀な事と、他には実感がないのじゃないでしょうかね。私は合楽の方達は、そこが本当にわかっておられるような気持ちでいつもこうしてお話させて頂いとるんだけれどもね。その方が合楽理念に基づくと、例えば、難儀、困ったという時であっても、有り難いとこういう。神愛だから。
いわゆる親の心が少しずつでもわかってくると、その有り難いという事がわかってくる。だから、それを、まあいろんな研修の時に発表すると、そんな事はないちいう。そんな難儀な中に、そんな有り難いなんていう、そんな事はないと、もうそのてんからいいきられる信者さんやら先生方がおられる。ね、けれども私それを聞きながら、なら、思うた事は、なら、合楽でこうして、日々稽古をさして頂いておる人でもね、ただ苦しいからどうぞどうぞというておるというだけ。
そこに親の情を感じようともしない、わかろうともしない。苦しい事は苦しいけれども、親にゃもっと苦しい思いをさせておるというような情がね、出けてまいります時に、いうならばひとつの情念がね、親子の情というようなものが、いよいよ深くなって、それから、いうならば、涙がこぼれるような有り難さという事になってくるんです。
だから神様は大体信心してとおっしゃるのは、そういう信心を頂きわからせて頂いてという事だと思うです。おかげを受けてくれよと、ね。そこん所がわかる時に、例えば、なら、広東教会の先生じゃないけれども、合楽の信心の一番すばらしい所は神愛という事だといわれるように、本当にそれが一切神愛とわかる時に、どんな場合であっても、それこそ、それがきつければきついほど、苦しければ苦しいほど、有難涙がこぼれなければおかしいです。だからもっともっと、なら、親の、屑の子我という自覚にたって、屑の子である為に神様に大変なお悲しみを与えたり、苦しみを与えておるのだと、ね。
そこに例えば、あいすみませんとか、次の発奮とか、発疹という事がなされて、これは、私の信心の過去を皆さんがいつも聞いて下さってね、私も始めからホカッと苦しい事が有り難いという事じゃなかった。けども、そこの所がだんだんわかって来た時に、有り難いという事になつてきた。いわゆる心が開けてきた。
そのへんからいうならば、信心させて頂く者は肉眼をおいて心眼を開けという事は、本当な事がわかれよという事なんです。難儀じゃない。それはもう神様氏子に力を与えたい、おかげを与えたい、お徳を与えたい。お徳だけはもうお前達人間氏子にしか渡されんのだよと。
だから、ここん所を頂きぬいてくれよという願い。信心しておかげを受けてくれよというのは、私はそこん所のおかげをくれよであると。参ってくれよ、拝んでくれよ、そしておかげを受けてくれよとは違うと思う。ね。その前に、いうならば、屑の子ほど可愛いと仰せられる。おかげの頂けん氏子ほど可愛いい。難儀をしておる者、子供ほど親が不憫は増すのだ、情はつのるのだと、ね。そこをわからせて頂く時にですね、それこそ憎うてこの手があてられようかという、いうならば、お手であるという事がわかるときに、お手にすがってお礼がいえれる事になる。
どうして私だけたたきなさらにゃんかというのではなくてです。ね、憎うてたたいておるのじゃないのだよと。分からせたい、力を与えたい、お徳を受けさせたいの一念が、そういう働きになってくるという事をね。
私も沢山、合楽で、合楽理念による助かりという事が、皆さんがいうておられ、私も毎日いっておりますけれども、その広東教会の、この伊藤さんに話されたというその御信者さんの事から、私が一切神愛ですから有り難いですとこう、そういう苦しい時にそういう喜びが湧くはずがないち。そりゃいうなら嘘だというふうにいわれるけれど、いわれたというのですけれども。
あながちね、これは私共が本当にそこに重点をおいて、果して自分は、なら、そこん所が頂けておるだろうかをひとつ思うてみて、いよいよね、いうなら神愛のひとつの悟りがね、又は、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰せられるその信心内容というものが、どのようなものでなからねばならないかという事を、親子の情をもって説いてある。
そこから考えて、ただ参って来ておかげを受けてくれというだけの事ではない事を、ひとつわからしてもろうて、そして自分の信心がどんな場合であっても、果して、なら、神愛、合楽理念でそれを受けとめておるかどうかという事を、こりゃあ、まあいっぺん、改めていかなけりあいけないなあといったような事を、私は昨日感じた。 どうぞ。